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第6回勉強会議事録

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「医師のキャリアパスを考える医学生の会」第6回勉強会が東京大にて開催された。6大学17名の参加があった。

田口空一郎先生

司会:東京大学医学部4年 森田知宏
講師:構想日本政策スタッフ・東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻 田口空一郎先生


(以下敬称略)
司会:今日はロハスの記事とパワポを配りました。確認お願いします。
講演(以下特に記載がなければ田口)
(東京新聞の記事について)
ミソは3段落目
今朝の会見で、医系技官のポストとなっていたところに事務官を置いた。運命的な日。
現在のポスト構成は健康局と医政局を必ず医系技官が占めてきた。
このことが破られたという点で画期的。

(今日の本題)
はじめに
前提として…
いわゆる医師不足、訴訟、HP閉鎖・縮小、患者たらいまわし、クレーマー、コンビニ、医療費不払い無保険世帯などの問題点がある。
医療は暮らしに密着しているため、クローズアップされやすい。私は、シンクタンクの前に国会にいた。医療政策をどのように組み合わせたらいいか、ようやく少し見えてきた。

医療費抑制の象徴として、医師数減がおこなわれてきた。それを打開した(去年)はパンドラの箱を開けたのと同じ。これから、医療提供対策、皆保険に手をつけなきゃいけないけど、まだこれには先が見えない

医療には専門知というものがある。現場からの発言は今までなかったし、拾うこともしてこなかった。
では、医療における専門知とは何か→知識とスキル。難しい言い方をすると、科学と技術の両面。これが医療における現在の問題点。
知識とスキルを政策に反映させるのはむずかしい。なぜかというと、机上の空論は誰でも扱えるが、技術のところはやってない人はわからないから。
公共性とは
医療の公共性とは?
これから出て行く人にとっての公共性を、これから考えなきゃいけない。医療行為は国家資格を持った人の業務独占行為その保持者や伝授法はpublicとはいえず、closedである。その中身を知る(注:つまり私たちが大学で勉強している内容を勉強する)というのもpublicではない。その点で、医療は非常に限られた人に与えられたものである。 一方医療が向けられる対象や制度、基盤はpublicであるといえる。

医療者というのは、高度な知識と技術を特権的に与えられている。それを使う人にとってそれ自体が孤独な決定である。選択肢(治療法など)を与え、決めるところは開かれているが、医療の内容(選択肢の内容)に関しては市民と協議して決めるわけにはいかない。

日本の場合は公=官という認識が根深く、何かやろうとすると陳情に行く。先日の読売の提案もそうである。事前に厚労省の某課の課長にリークしていた。必ずしも公=官でなくていい、という発想がない。成長しているわけではない経済状況なので、かえってそういうことが試しやすい。政府でも市場でもない、民の担う公という可能性が考えられる。

第3者機関と言うと第3セクターが思い出される。第3セクターでは、官ではないと言いつつも官が事実上主導している。天下り先。行政も一つのプレーヤー(たとえば、大学や民間も一つのプレーヤー)として(互いに対等な立場の)第3者機関を作る。 第3者機関を研究しようとおもえばPMDAがおもしろい。独立行政法人だけど、おもしろい。PMDAに入って行政的+研究的実績(博士号)を積めるシステムがある。

ちょっと飛ぶけど。。。
医療の専門知とはどうやって担保されているか。制度で求めると考える人が多い。大学、国家試験、専門医…。しかし、医療の最も権威の根源とは、ジャーナルである。そこに投稿して、査読を通って掲載されることが専門知として公認されることになる。こうやって、医療はClosedであるけれども、社会的な権威を保ってきた。医療の公共性と合わせたときに、これをどうやって保っていくか、がこれからのテーマとなるだろう。
専門家は専門家としていなければいけないが、ふにゃふにゃした最新のものの底には、絶対的な基盤というものが、今までに積み重ねられてきたものとしてなければいけない。医療では専門的なことを徹底しようとすればするほど、closedであるため、かえって社会的な反発を生んでいる。医者の常識は世間の非常識、という言葉にも一理ある。なんでいわれるのだろうか?専門家としての職業倫理の貫徹と非専門家とどうやって向き合うか、2つのベクトルが求められる。たとえば、死について語らなければいけない。しかし、患者さんは希望を持ちたかったりする。自己への倫理と他者への倫理というものがある。

科学的合理性と社会的合理性
合理的には実はいくつかの種類がある。科学的合理性には時間軸などの変化する軸(可変軸)がないが、社会的合理性には時間軸、場所の軸、立場の軸など様々な軸がある。全体的なその時その時の合理性で決断してきて、たとえば、今の医学部制度がある。
医療でも同じようなことがいえる。たとえば、一定の確率で有害事象がおこる。医療には2つのことを考えあわせると矛盾することがある。実験室でやることを見るのが普通の科学だが、医療では社会科学的に見なきゃいけないところがある。他者への倫理は説明責任と言ったが、それをそのまま謝罪がなかった、等に落とし込むのには無理がある。そういうことをすると矮小化する。
医療では、双方向的なリスクコミュニケーションが必要となっている。日常的にリスクについて語り、共有することが必要。現在はリスクコミュニケーションに割く人が足りないからできていないが、それならば、できるような仕組みを作らなきゃいけない。医療におけるリスクコミュニケーションは科学的合理性から論理的に帰結されるわけではない。科学的合理性の中では、有害事象が起きたことのことは考えてない。医療では、科学者としての探究だけで済むものではない、ということを考えなければいけない。リスクコミュニケーションは社会科学的に求められるものである。社会も、医療者もリスクコミュニケーションが必要とされていることを認識しなきゃいけない。
こういうこと(リスク)について日常的に話していれば、たとえば新型インフルエンザについてもトラブルは起こらなかった。大きなことは官がやること、と我々が投げてしまうとうまくいかない。

医系技官について
医療と社会を結ぶことを担ってきたのは主に厚労省。仕掛けとしては大きなことは厚労省がやってきた。医系技官は医療と社会を結ぶことをやってきた。事務官と医系技官が連携して社会合理的なものと融合させた政策をやる、というのが建前。考え方としては正しい。事務方だけでやるのは無理だから、医系技官的なものは必要。
しかし、医系技官の入省要件には卒後5年未満が原則。これが何を意味するかというと、臨床経験が浅い。専門医を取るかとらないかレベル。実際なった後も、具体的に医療に触れることもほとんどない。高度になっていく医療についての知識をアップデートしていく仕組みもない。
20年務めた局長が事務官とどれだけ差があるだろうか。入省してしまえば、事務官と仕事は一緒で、臨床から離れてすごく時間がたっている。インフルエンザ対策をそんな人にさせるのは素人にメスを持たせるようなもの。

医系技官の他に、審議会という制度もあるが、形骸化している。内部に抱えた医系技官ではなく、世間的に高い評価を受けている人の意見を取り入れる、というのが建前。しかし審議会や検討会には、院長や医師会の理事など、現場から離れてかなりたっている人を呼んでくるため、医系技官がつくったたたき台にお墨付きを与えるだけ。彼らは臨床から離れているのだから、最初から外部の専門家に聞けばいいのに。。。呼ぶ人も大体決まっていて、審議会などを過去に50個やった人もいたりする。これでは、変化の激しい医療の政策は作れない。今の医療に関するトラブルの温床。

これを乗り越えるには?新しい社会的合理性を取り込む仕組みとは?
医系技官は考え方としては正しいので、定期的に医療現場に行かせ、医療の実態をアップデートできるような仕組みをつくる。局長や課長の管理職に任期付きの専門家を採用する。これらはる。欧米ではやられていること。医療行政に関する専門知には、公衆衛生が基盤。公衆衛生大学院でも今あるものは脆弱。日本には公衆衛生のプロがいないからやっぱりうまくいかない。インフルエンザもそう。国立保健医療科学院というものが一応あるが、非常に形骸化している。レッスンして資格を与えるのみ。本当にシビアな判断が求められる現場ではこんな知識では使えない。
医系技官の仕組みの大枠は戦後変わっていない。60年前は事務官が強かった。それを改正し、医系技官に一定の権限を持たせた制度がそのまま使われている。当時は社会的合理性があったか、今では無くなってしまった。
審議会について。最初から、内向きの議論ではじめからほとんど話が決まってしまっている。それぞれの立場の人たちに、どんな役割をさせるか決まってしまっている。
Agendaとステイクホルダーの選定の透明化。普通に医療を享受している人たち(つまり、一般市民)も、これから先まだまだ医療を受ける。それを入れるようにすべき。一般市民を入れると、今の(つくられた答えに決められた道を通って到達させるだけの)やり方はできなくなる。

事故調の審議会がハレーションを起こしてしまった。技官が悪いから、という単純な発想ではなく、審議プロセスを透明化することでもっと前向きに考えていきたい。事故被害者の言い分も、医療者の言い分もちゃんと社会的合理性がある。それをうまく吸い上げる方法を考えている。透明化が一つの吸いあげの手段となるのではないだろうか。

自分たちが技官になる必要も、議員になる必要もない。市民として、一緒に協力していこう。
質疑応答
北海道大6年男性:民の担う公というと、ヨーロッパが進んでいると思うが今どんな状況なのが教えてほしい。よかった点、悪かった点など、具体的なイメージがほしい。政策の中に民が入っていく方法や、政府外のところでみんながやるところとはどんなことがあるのだろうか?

田口:アメリカの市民は医療費に口出しをしているex.乳がん団体。そのため、声の大きい市民が反映される面がある。声が大きいところをやればいい、というわけではない。プライオリティをつけてやっていかなきゃいけない。それが歪んでしまっているところがある。その歪みをどのようにして質の高い声を反映するシステムを作るか、というところでアメリカも悩んでいる。聞こえのいい市民参画ではだめ。そこは専門性を構築して、透明化してしまえば、そういうことは防げる。不要な圧力を排除できる。日本はその前の段階。日本はアメリカの様な状態にならないように、さらに先の手を打たなきゃいけない。

東大4年女性:透明性を持たせて(審議会などの)メンバー設定。どういう合理的な理由が考えられるか。また、今は、声の大きい人たちが前に出てきている。質の判定は誰がやるか。質のいい市民はどうやると作れるのか。

田口:事故調では医療サイドのバランスが悪い。最後になって救命救急の人を呼んだりしていて、ステイクホルダーをリストアップしてない。今まで呼んだ人たちを慣例で呼んでいる。ステイクホルダーをちゃんと考えず、報告書を欠いて提出することが仕事になってしまっている。ステイクホルダーをきちんと考えて呼ぶ、というところも一つの仕事としてやるべきだ。ちゃんと事故リスクが高いところから人を呼んで、話し合うことが必要。

東大4年男性:専門的合理性を実現化している閉鎖的な場で社会的合理性とごっちゃにするとおかしなことが起こってくる。専門的合理性を実現化している場がいくつか集まって話し合うのが社会的合理性?

田口:今やっているのは、リスク評価とリスク管理を別にやろう、というところ。リスク評価は専門的合理性が必要。そこに市民の声を入れても仕方ない。
リスク管理のほうには社会的合理性が必要。行政がやらなきゃいけない。リスクを防ぐこと、リスクが起こったらどうするか、というところには市民の声が必要となる。少数派が勝てるのは科学的合理性。
リスク評価を分けられるか?専門家と権力を分断することが難しい。なんでかというと、すごい圧力がかかるから。食品では、専門家を選ぶときに政治力がかかってしまっている。良い、となったらそこに金が流れてしまっている。それを排除するのは非常に難しい。それは一つ一つ解決していくしかない。

東大4年男性:Wikipediaはプロセスを透明化することによって上手く行っているケースだと思うが、医療にそういった形を持ち込むことはできるか?そういったことに関して何か問題はあるか?

田口:ミクロのリスクコミュニケーションとマクロのリスクコミュニケーション。Wikipediaは専門家か?透明化すればいい、というわけではなく、公認されなきゃいけない。品質保証をしてくれなきゃだめ。プロセスを透明化するだけでなく、それを評価してくれる人が必要で、そこには専門性が必要。それをやる人がいないといけない。

東大3年男性:まとめの「我々がステイクホルダーになる」というのは当たり前。医療のことを知らない人間が語るのは無理。だけど、マクロな視点で医療に貢献していく、という視点は不足しているんじゃないか?医学部生にマクロな視点がたりないと感じることがあるが、それを勉強するにはどうすればいいか?

田口:医療は専門化しているから、それ(マクロ視点が足りないこと)は確か。地域や専門によって、見えている問題はバラバラ。審議会をミクロに落とし込むと…うまくいかない。属する地域で、自分たちの地域の中で、地域の問題を具体的に解決していく仕組みを作るのは一つの案だろう。より近いところで意思決定を反映できるようにすれば、問題がよりリアルに話し合える。勉強法としては、科学技術や公共性の本を読む、医療以外の人との人事交流を行う、情報を更新する意欲を持つ。医療政策に興味を持つ人が多いが、いきなり大きな話をしないで、徹底的に医療の専門性を高め、たとえば田口さんと連携すればいい。医療の判断を越えた問題がどんどん出てきているex.終末期.医療に閉じこもらない生活をしていけばいい。あんまり難しいことを考えなくていい。

東医3年男性:医療は非営利であると見られがちだが、営利がやっぱりどんどん入ってきている。第3者機関の具体的な形が知りたい。

田口:社会的合理性が財源論によって進んでいるところがある。いくつかパターンがある。寄付やコミュニティー立病院。地域の所有物としての病院。運営についてもコミュニティーが入っていく。会費制でライフケアシステム。専門家24時間対応のところを作ろうとしている。患者サイドが自分たちで学べるように。医療教育を行う。新しい財源を作る。無尽蔵に医療費を上げるわけにはいかないから。
天下り財団のイメージは、第3セクターでない団体に、お金(税金)は出すけど口は出さない、という仕組みを作らなきゃいけない。官からお金は入れるが、口は出さない。PMDAのトップが天下りでないバージョン。

東大5年男性:専門知について。医者の専門性はジャーナル共同体によってオーソリティーを与えるというのは?日本においてはジャーナル共同体、というのはあるのだろうか?NEJMは日本のなんてほとんどない。それで専門が担保されていると言えるのだろうか?
自分が思うオーソリティーは、医師免許を持っている。ローカルルールを持っている。ということ。どうやって転院させるか、とか何日で退院させるのか、というのがローカルルール。しかしローカルルールを知っているだと、閉鎖的なんじゃないだろうか?サイエンスとしての医療には国境がない。

田口:Knowledgeはジャーナルが格付けしている。ローカルルールはサイエンス的なところではなく、スキルに含まれる。ローカルルールに含まれるのは、地域に対する貢献、地域の名士、的なところジャーナルは、最終根拠、これがないとどこに行くかわかったもんじゃない。ローカルルールはやっぱり複雑。そういうことをこれからやるんだね、皆さんは。

参加者:サイエンスに対するコミュニケーションへのコンフリクトと患者さんとのコミュニケーションへのコンフリクト、どっちが多いか、と考えるとステイクホルダーの選定がすごく難しくなってくる。一つ一つのケースになってしまうから。どう考えればいいのか?

田口:行政と医療現場でちょこちょこ起こっていることは分けた方がいい。現場で起きていることは、その場その場で対応していくしかない。

東大5年男性:改革はどの程度実現されるのでしょう?

田口:総選挙でいい医療政策を出しているところに投票するのがとりあえず直近でできること。

東大5年男性:たとえば、自民党に投票しないとか?

田口:そういう脅しをかけるのもだし、ブログとかで意見表明するのもできる。茨木だって、普段からの意識共有がなかったら、たぶんあんなことはできない

東大4年男性:民からの公。誰にとっての公かというのは違う。人によって公、というものが違う。自分と同種のものが働きやすい世界を構築しようとする。そういうのを積み重ねたものが世界なのかな…?

田口:どこの領域を囲いこんだらいいのか、という問題だよね。公益と共通利益は違う。最大の公共性となると、世界を含んだものにしなきゃいけなくなって、何も言えなくなる。なので、部分利益を主張しなきゃいけなくなる。議論はどうしても閉鎖的になってしまう。しかし、それでいい。どんなパブリックがパブリックなのかを言って行くのが行政。意見は別として、やっていることがパブリック。声を上げることによってようやくわかることがある。言ってくれなきゃわからない。言うことで論争を呼べる。さらに進化していくには、他の人としゃべることを避けちゃいけない。そういう対話をしていくことが大事。自らの利益を主張することはprivateなことじゃない。仲間がいるから。それを話し合う体力を持たなきゃいけない。

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